イタリア・ミステリー

【フィレンツェのカフェより愛を込めて】

その一年後、彼女は立ち去った。 

私たち皆んなの前から消えてしまった。 

病は3年間彼女のなかに潜んでいた。 

私はたまたま通りかかったのだ。朝日を浴びた

カフェのオープン席の間を縫うように歩を進めた。 

まだ、老舗の店がパラソルを広げていない

時間帯であった。それは冬場の朝だからだろうか。

私が歩いていたのは、フィレンツェ街中の

シニョーリア広場だった。

そこにはお気に入りのカッフェ、リヴォワールがある。

Rivoire この佇まいはこの場所に1800年台から

存在する。場所を移さなかったカフェとしては

おそらく街一古いカフェであるはずである。

目の前にはヴェッキオ宮殿がそびえていて

全く高さは違うのに、お互いの偉大さを

背比べしているようにも見える。

もちろん、ヴェッキオ宮殿は1300年台から

その場にある90メートル以上の高さの建物

であるわけだから、圧倒的に優位にあるように

見えるのだが、リヴォワールのカッフェは

そんな点などお構いなしで、実に賢く振る舞う

摂政のように、目の前に陣取って憚らない。

その控えめでありながら威厳性がある感じが

印象的なのだ。

まさにルネサンス期にメディチ家が世に示した

姿勢ではないか。そんな店構えが私は好きだ。

カフェのオープン席には男が新聞を大きく広げている。

その姿の隣に何故か目が行った。髪を肩のあたりで

真っ直ぐに切り揃えた彼女は真正面を見つめていた。 

その先にはヴェッキオ宮殿の石造りの建物と

その隣の館の間から朝日が登り始めていた。

まだ冬至を超え、日が長くなり始めてほんのひと月半。

たまたま空気が暖かく、外に座り込むのも

悪くない日だった。 

知っている顔だった。

久々の対面に、親しげに言葉を交わした。 

男は新聞を下に下ろした。彼女のご主人

よく知る顔が二つ並んだ。 

なぜか彼女のたたずまいが印象的だった。 

太陽の光を顔に浴びるのが愛おしいかのようだった。 

深く味わおうとするかのような…その瞬間を

逃すまいとしているかのように見えた。

そんな彼女の表情に惹かれた私だったが、太陽光に

語りかけるかのような彼女の邪魔を

したくなかったので、軽やかに別れを告げた。 

ご主人はそんな彼女の様子を共有することなく

新聞記事に目をやっていた。まるで自分は

今朝の太陽などちっとも興味がいかないと

言わんばかりだった。

彼の知的興味は彼の脳の全く違う部分を

刺激していた。同じ席に座りながら

2人それぞれ違う世界に夢中になり

しかも彼らの足元は何かが2人を間違いなく

結びつけていた。 

夫婦ってこんなものかな…

何気なく思い、私はカフェから立ち去った。 

一年後、あの時2人はすでに

戦いの渦中にいたのだと悟った。 

改めて美しい夫婦像が私の脳裏に蘇った。  

写真・文 松井純子

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